鳴海城 | 桶狭間合戦時に今川方の岡部元信が守ったお城
名古屋市緑区の鳴海城跡は、桶狭間合戦時に今川方の武将である岡部元信が守りきった堅城です。
歴史
鳴海城の築城は、室町幕府三代将軍・足利義満の応永元年(1394)に安原備中守宗範が、鳴海の地を領した時と伝わります。
まず現在の鳴海城がある場所に、もともと鳴海神社があったのですが、安原さんが築城するという事で、鳴海神社を移動させ、お城を築いたことがわかっています。
つまり現在の鳴海城跡はかつて鳴海神社があった場所なんです。
戦国時代になると、織田信秀が廃城となっていた鳴海城を改修し、山口左馬之助義継(教継)を守将として入れます。
この時の鳴海城の規模は、東西136m、南北62m、南側は崖で残る三方向には堀があったそうです。
信秀没後、山口氏は信長に従わず駿河の今川氏に属してしまい、信長は山口氏を攻めますが(赤塚の戦い)、鳴海城を落とすことができずに兵糧攻めに切り替えます。
この時、鳴海城の補給路を断つために
などの砦を築いています。
また信長の計略により、山口親子は今川義元に駿河で成敗され、代わりに岡部信元が鳴海城を守った状態で桶狭間合戦が起こります。
合戦後、鳴海城に立て籠もっていた信元で義元の首を信長からもらい受け駿河に撤退。
以後、佐久間信盛が鳴海城を治め周辺の城下町を整備しましたので、今でもその名残として『作町』(さくまち)の地名が残っています。
感想
鳴海跡は、現在の緑区鳴海町字城の城址公園から、県道249号線をまたぎ、字矢切までの付近であったと伝わります。
鳴海城も、周囲より高くなっており、南側の扇川を天然の堀としたその様子は、堅固さを伺わせています。
まず名鉄鳴海駅から向かうと、かつての二の丸だった場所が天神社になっており、道路を渡ると公園がありますが、ここが鳴海城本丸といわれている場所です。
南側の崖はそのまま残っており、周辺は開発され住宅地になっていますが、高低差を確認することができます。
また東の方は織田方の善照寺砦と地続きになっており、鳴海小学校の東にある県道は、鳴海城と善照寺砦の間にあった堀切跡といわれています。
開発が進んで住宅街の中にあるお城というイメージがありますが、丹下砦、善照寺砦、中島砦をセットで歩いて周る事もできるので、ハイキングがてらの史跡散策ができる点もよかったです。
天神社に建つ鳴海城の石碑。公園が本丸跡といわれていますので、この天神社の石碑や案内看板は見落としがちですが、ここもチェックしましょう!
かつての鳴海城本丸といわれる鳴海城跡公園。中央に大きな富士山の遊具があります。南側が崖になっており堅固さがよくわかります。
城跡公園の北にある東福院の山門には、かつての鳴海城の廃材が使用されています。お寺の方の許可をとって見学してみてください。
東福院の住所
名古屋市緑区鳴海町花井町3
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