守山城 | 松平清康を巻き込んだ守山崩れの現場




守山城 | 松平清康を巻き込んだ守山崩れの現場

 

 

名古屋市守山区の守山城は織田信光の居城で、徳川家康の祖父・松平清康が亡くなったお城でもあります。

 

 

また信長の弟である信時が城主となったり、秀孝が亡くなったりといろんなエピソードが残るお城です。

 

 

 

 

 

歴史

 

守山城の築城は、大永元年(1521)今川氏親(今川義元の父)が、那古野城を築いた頃、それに対抗して織田方が築いたといわれます。

 

 

天文四年(1535)、三河の大半を手中にした松平清康(徳川家康の祖父)は、宿敵・織田信秀の尾張を攻略する為、信光の手引きによって守山城に入城します。

 

 

織田信長と徳川家康は同盟を結んで仲が良かったのですが、実は親の代までは、尾張の織田氏と三河の松平氏は敵同士で、互いに攻め合い、一進一退の攻防を繰り広げていました。

 

 

清康が守山城に入城したその翌朝、城内の馬が暴れ人々が騒ぎたちました。

 

 

この物音を聞きつけた清康の家臣・安部定吉の子・弥七郎は、かねてから父に清康への逆心ありと噂さがあった為、父が成敗されると思い込み、先に清康を討ってしまいます。しかしその場で、弥七郎も清康の家臣・上村新六郎に討たれてしまいました。

 

 

後に、歴史家達はこの松平家内部騒動を守山崩れと呼んでいます。

 

 

ちなみにこの守山崩れで松平清康は亡くなり、代わりに当主となった広忠はまだ10代で松平家を統率できず、尾張の織田氏の侵攻にも対応できなくなり、嫡男の竹千代を駿河に送って、今川氏の力を借りる事になります。

 

 

 

 

その後の弘治元年(1555)、信長・信光により清洲織田氏(織田大和守家)の織田信友が滅ぼされた後、信長は清州城へ、信光は信長より譲られた那古野城へ、そして守山城は信光の弟の信次が入城しました。

 

 

しかし間もなく信次の家臣・洲賀才蔵が信長の弟である秀孝を謝って殺害してしまい、信次は出奔してしまいます。

 

 

この時、城下は信長の弟で秀孝の兄である末森城主の信行(信勝)の兵により焼き払われ、城には信次の重臣・角田新五一派が立て籠もり続けていましたが、佐久間信盛の活躍により信長の異母弟・信時を城主とすることで落ち着きました。

 

 

しかし、信時は角田新五より他の家臣を重用したので、角田新五により切腹を迫られ最後を迎えます。

 

 

その後、守山城は再び角田新五一派が立て籠りましたが、帰参を許された旧城主の信次が城主に復帰することで解決しました。

 

 

ちなみに信次は天正2年(1574)に長島一向一揆の戦いで亡くなっています。

 

 

守山城の廃城の時期はよく分かっておらず、桶狭間の戦いの後、信次が亡くなった時、小牧長久手の戦いの後という説があります。

 

 

 

 

 

感想

 

かつての守山城は、現在、守山区の宝勝寺と周辺の住宅地になっています。

 

 

ちなみにこの宝勝寺は、守山崩れで亡くなった人達を供養するために創建されたそうです。

 

 

さて、お城跡の遺構ですが、宝勝寺の隣りに物見台の様な土塁の一部の様な土盛があり、その上に守山城の石碑があります。

 

 

またかつての堀跡と思われるものが、現在、竹藪になっています。

 

 

あとは開発が進んでお城の遺構らしきものは無いのですが、お城跡とされる場所が周辺より高台にあり、ふもとから、また頂上から周辺の高低差を確認することができます。

 

 

私の感想ですが、名古屋市内の住宅地において、これだけの遺構が残っている守山城は、歴史的にも雰囲気的にもオススメのお城だと思います。

 

 

 

 

 

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これは石碑が建っている土盛の横からの写真。この土盛が土塁なのか、もしくは物見台の様な建物があった曲輪なのかはわかりませんが、これだけの高低差があるとやはり意味がある土盛なのでしょう。

 

 

 

 

 


こちらは守山城の堀跡。現在は竹林になっています。

 

 

ちなみにこの堀跡には、かつて橋が架かっており、清康が亡くなったのは、その橋付近という説があります。

 

 

 

 

 

 

そしてこれは高低差の写真。

 

 

こうやって見ると守山城は平山城という事がわかりますね。お城の遺構は残っていなくても高低差などで、当時の雰囲気を偲ぶ事ができますね。

 

 

 

 

 


これは守山城の城内と思われる場所から周辺を眺めるの図。

 

 

思いっきり下り坂になっていることがわかりますね。つまり守山城が高台にある事もわかります。当時はビルなど無かったので、ここからもかなり遠くを見渡せたのではないでしょうか。

 

 

・所在地  守山区守山字市場4丁目

 

・立地  平山城

 

・築城時期  大永元年(1521)

 

・築城者  ?

 

・主な城主  松平信定・織田信光

 

・現状  宝勝寺

 

地図

 

 

 


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