この地の土豪で知立神社の神主でもあった永見氏の知立城
知立市の知立城跡は、戦国時代この地の土豪で知立神社の神主でもあった永見氏の居城です。池鯉鮒城、知立古城とも。
歴史
知立神社の十三代目神主の永見貞春は、保元・平治の乱(1156〜1159)に朝廷側として出陣しているそうなので、その時からこの地域に力を持っていた一族だった事が分かります。
やがて戦国時代。西に刈谷の水野氏、東に岡崎の松平氏と強豪に挟まれた永見氏は、水野氏と関係を深める一方、松平氏にも仕え、天文四年(1535)には松平側として守山(名古屋市守山区)に出陣したりしています。
桶狭間合戦では今川方に属し、合戦後、織田信長に焼かれました。
知立の郷土史家・永田金一氏(故人)によると、知立城は桶狭間合戦時、今川軍の宿営所として使われた可能性があるとのこと。
たしかに周辺に比べ高台にあるこの地は、なるほどそんな印象が残る場所でもありました。
その後、知立城は水野氏の支配下となり天正年間(1573〜1592)には御殿が建てられ、それが江戸時代に増築され将軍家の宿泊や休憩所となります。
しかし元禄十二年(1699)地震により倒壊、その後再建されることはありませんでした。
ところで二十九代神主・永見貞英の妹は、水野信近(信元の弟)に嫁ぎ、貞英は水野忠政の娘を妻としてお万の方をもうけました。
このお万の方、徳川家康の正室・築山殿に仕えましたが、天正元年(1573)に家康の側室となり、翌二年には男子を出生、これが後の結城秀康です。
つまり知立城は、結城秀康からみれば、母の実家のお城という事ですね。
感想
現在では児童公園となっている知立城。公園の中に、かつてのお城跡を示す石柱と御殿の石碑がありました。
私の感想ですが、この知立城はこの地域の交通の要所だったと思います。なぜかというと、江戸時代の街道がこの近くに密集しているからです。
まずは江戸時代の東海道が、そっくり知立城跡に建てられた御殿の前を通っていますし、近くには東海道から刈谷城に向かう事ができる刈谷道があります。
さらに現在の西尾市方面に伸びる吉良道もあるので、知立神社と共に、これらの街道を押さえる要所だったということですね。
公園内に建つ知立城の石碑。
こちらは御殿跡の石碑。江戸時代に建てられた御殿のものですね。
すぐ近くをかつての東海道が通っています。
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